記憶 ⇒ 国

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2012年12月16日。
本日は衆議院選挙投票日。選挙についてはそれこそ多くの方々が多くの意見を発信されているので、私からどうこう言っても特に意味はないかなぁ〜と思いつつ、あえて違う視点で書かせていただきます。

そもそも「国家(こっか)」とは?辞書で調べてみると、

一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。または、その組織・制度。主権・領土・人民がその3要素とされる。

う〜ん、これはわかりやすい。用は一定の領土において、そこにいる人民に対しなんらかの方向性で共同体を営むための強制力って感じでしょうか。で、昔からその「なんらかの方向性」というところの変遷が国家の変遷だったのだと思います。

国王が勝手に決める・貴族が決める・宗教化が決める・お金持ちが決める。。。。で最後に民主主義つまり「人民が決める」という段階になったのが今の時代なわけです。ココまで見ていくと「選挙」ってなんなのかがよくわかります。つまり選挙とは

「その何らかの方向性を決める」ためのもので、決めちゃったら強制力が働く

わけです。

そんな国家の方向性を決める大切な大切な日だというのに、若者の興味関心は低いといわれています。これを見て「若者は意識が低い」だとか「もっと啓蒙が必要」だとか言う人がいますが、全てナンセンスです。なぜならば若者は全てをわかっているからです。それは

まだ何も変わらない」

ということを。

この世の中の未来ってのは私はほぼほぼ決まっていると思います。
先進国を富ませてきた大企業は、グローバル化の波に襲われ、世界中の大企業と戦うことになります。大企業はその生命の存亡をかけて、合従連衡しながら、より賃金の安い地域へ移動していくことが宿命づけられています。でなければそこで生命がストップしてしまうからです。で、結果としてどうなるか?それは「賃金が安い地域が徐々に豊かになる」わけです。

全ては必然で「世界はよりよくなる方向に進む」ことがもう決まっているのです。

では日本は?これから日本は高齢化社会になっていって、人口が減っていくことはほぼ確定です。今までは1億人の魅力的な市場だった日本も、どんどん魅力がなくなっていくので、いよいよ日本の企業は世界へ出ていくしか生きる道はなくなります。もちろん出て行かなければその企業は倒産、または日本内で縮小均衡をしていくしかありません。

どちらにせよ、産業が空洞化、ないしは停滞し、社会は大混乱することは必然です。その大混乱ぶりは今回の選挙の政党乱立、政策の多岐化とぼやけっぷりを見れば一目瞭然です。つまりだれもどっちに行けば「正解」かということがわからないからこうなるわけです。で、どっちに転んでも待っているのは「大混乱」しかありません。

では、「大混乱」した後、日本はどうなるの?ってのも実はある程度は決まっていると私は思います。
大混乱したとしても、日本はやっぱり「スゴイ」のです。今までのように規模の拡大は見込めませんが、その分人口も減るわけなので、今までのような拡大する経済力は必要なく、今までの「貯金」で悠々自適な生活ができるのではないかと思います。例えば、現在日本社会においてお金を持っているのは60歳以上であり、これからその親の世代から子の世代に「家」の相続が進み、基本的に「住む」ことには困らなくなると思っています。家の話は一例ですが、全てにおいてモノがあまってきますので、贅沢はできないけれど、生活には困らないそんな社会がもうすぐそこまで来ています。

で、そうなると人々はどうなるか?「生活のために生きる、働く」⇒「世のため、人のために役立つことをする」社会に変わっていくことでしょう。そう、超長期的に見れば、日本社会もよりよい方向へ進んでいるのです。

がしかし、何度もお話しますが、そんなステキな社会も大混乱が起こらなければ見えてこないのです。短期的には相当苦しいことが起こることも予想されます。そうやって人口も減り、経済も縮小していった未来にステキな社会が待っていますよ〜ということなのです。


さて、上記未来予想を踏まえて、今若者がなぜ選挙に対する意識が低いのか?ということを考えて見ましょう。

私は思うに、若者はやっぱりわかっているのだと思います。「まだ」社会は変わらないことを。
なぜならば既存の勢力がまだまだ生き残っていて、その勢力がなくなって初めて新しい社会がスタートすることを。こんな言い方をすると大変失礼ですが、人口構成比の多くを占める今の上の方々に退場していただかないと、何も変わらないのです。退場するってことはどういうことか?それは高齢化社会を向かえて、国力がしぼみ、大混乱が来るということです。

今回の選挙で、どこがどう議席を確保するかで、短期的なことを変わりますが、長期的にみると何にも変わりません。どちらにせよ決まっているのは「大混乱」がくるということです。これは必然です。だから若者は関心がないのです。
ただ、少々語彙力と表現力が不足しているため「俺らが選挙なんかいったって何もかわりゃしないよ」ぐらいにしか言えないのですが、そこには上記のような大きな視点が含まれているのです(本人たちは無意識だと思いますが)

いってしまえば、今回の選挙は「どんな大混乱を選びますか?」ということ。どっちにいっても大混乱間違いなし(笑)

さて、皆さんはどんな大混乱がお好みですか?

んん、「どんな大混乱がお好みですか?」われながらいいキャッチコピーだ。どうせなら、一番大混乱しそうな奴を選んでやる!

って、おい!そんなMっ気たっぷりなこといってるんじゃないよ!
わっ。。。私、そんなにMじゃないので、選挙いってきまーす!

記憶

美しさ 美意識 ⇒ 記憶

                                                                                                                                          • -

結論から言ってしまうと、

「記憶ってモノはどうにでも変えられる」

と私は思っています。記憶が変えられるってことは同時に

「過去も変えられる」

ということも同時に言えます。


バカ言うんじゃない!過去が変えられる訳ないだろ!そんな答えが聞えてきますが、これは紛れもない事実です。その理由は「記憶」というものの性質にあります。

例えば「過去」に交通事故にあったとしましょう。大きなトラックと衝突!がしかし、奇跡的に軽症ですんだ。が、念のためということで救急車に乗って病院に直行し、念には念をおして一週間入院した。こういう事実があったとしましょう。

さて、この事実。今まさにあなたの目の前に起こっていることですか?起こっているわけないですよね。あくまで「過去」のお話ですから。ではこの「事実」といっている内容はいったいナンなのでしょうか?

お分かりだと思いますが、今「事実」といっている出来事は全て「脳が事実として記憶している」内容ですよね?事故にあったときの衝撃や音、その後の周りの人とのやり取り等々を映像、言葉、音、体の感覚などでしっかりと脳に刻まれている「だけ」なのです。


というわけで、記憶をどうにでも変えられるといった理由の一つ目は、「あくまで脳に刻まれている内容」なので、もし仮に、その事故の記憶を司る部分が機能不全に陥ったとしたら、事故の記憶自体もなくなってしまうからです。

記憶を欠損させることもできるのであれば、当然ですが記憶を植えつけることだったできますよね。
(今上映中の『トータル・リコール』がこの話ですよね)

一つ目の理由はチョット大げさな話で、チョットSFっぽい話ですが、二つ目の理由はもっとまっとうなものです。どういうことかというと、
「起こった出来事」に関しては変えなくても、その出来事に対する「意味づけ」を変えることによって特定の記憶の解釈を変えることができるからです。

人間というものは良くできているもので、過去の記憶というものの「意味づけ」をどんどん後から後から書き足すこともできたり、修正したり、複雑にしたり、シンプルにしたり、特定のものと意味づけを行ったりなんてことができる便利な生き物なのです。

例えば、先ほどの事故の例。事故にあってしまったことを「なんてこった、最悪だ!」と意味づけしていたところに、通りかかった見知らぬおばあちゃんが、「あんた、あんな衝突でピンピンしておる。きっと神様に選ばれた人材じゃよ」なんていわれて真に受けたら、事故の意味合いも変わってきます。さらに救急車に乗って病院に着いたらなんと、とっても美人の看護婦さんが担当に。そこでおばあちゃんに言われたことをその気になった看護婦さんに話してみると、やだ、何この人?頭狂ったのかしら?と思われたので凹んだ。でもあまりにも説得力があって看護婦さんは次第に興味を持ち始めた。気がつくとこの選ばれた人と一緒にずっといたい、とか思って結婚しちゃいました。なんてこともあるわけです。

で、事故の記憶なんてどこの部分と意味づけているかでよい経験か、悪い経験だったかなんて変わります。それも紙一重なのです。この事故の例でも、事故った瞬間の「最悪だ」ということを意味づけたらもちろん最悪ですし、看護婦さんとの出会いがあれば、あの事故があったからパートナーを見つけることができた、ありがたやってなるわけです。

そうやって考えると、記憶というものは後からどう解釈するかで、どうにでも変えることができるといえますよね?

私はたくさんの人の相談にのってきた経験からこのことを何度も何度も体感したので、実感をもって言えます。
記憶はなんとでも変えられる。過去もなんとでも変えられる。

じゃ、失敗することを恐れて何もしないなんてもったいない!!なんていう自己啓発系のお話もありますが、そんなうすっぺらい話ではないのです。
そもそも失敗という概念すらないのです。もうここまでくるとお分かりだと思いますが、過去が記憶だとすると、未来は「イメージ、創造」です。どちらも現在にはありません。ただ「頭の中」には「記憶」と「イメージ」という形で存在するだけです。

というわけで、過去も未来もないのです。在るのはただ「現在」のみ。そして現在、現在、また現在。。。と現在の繰り返しなだけです、この世の中は。
全ては現在の「あなた」の選択の積み重ねでしかありません。逆に言うと、選択は無数に用意されていて、過去も未来もナンとでもなっちゃうのです。

では、あなたは今何を選択しますか?
あなたのこの瞬間の選択が、世界を変えるのです。

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美しさ 美意識

東京 ⇒ 美しさ 美意識

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バリのライステラス。日本風に言えば、「棚田」。

とってもステキな場所でした。バリ。初めて言ったのになぜか「懐かしさ」を感じるそんな場所でした。
そしてそんな「懐かしさ」といっても1970年より前の日本のことを言っているので、正確な意味では私はその時代を生きていないわけです。
それでも、そんな私でも

「ああっ、昔の日本ってきっとこんな感じだったんだろうなぁ〜」

と思わせる不思議な力がある場所でした。


さて、私が感じた「懐かしさ」。まったく異なる昔の日本とバリで、共通項はいったい何なのでしょうか?思うにそれは、生活の中に「美しさ」を追求することだと思います。もうチョット言うと、「生き方」そのものにその人の「美意識」が反映されているといえるでしょう。

この棚田にしても同じだと思います。

もともと自然とともに生活をしている住民が、自然と共存するためにどうやって生きていったらよいか?それを考え無駄なものをどんどん削ぎ落とし、山の傾斜を利用したものとなったのだと思います。がしかし、現在の技術革新を考えると、もうこのような棚田で稲作をやらなくても食べていけるようになっていると地元の人がおっしゃっていました。何せバリは一年中温暖で水にも恵まれているので、稲作だと三毛作も可能だとのこと。米を一年に三階も収穫可能なのです。また米を三回つくらないとしても間のタイミングで野菜を収穫することも可能ですので、これは確かに傾斜で作業にも非効率な棚田でやらなくてもよさそうだと感じます。


がしかし、バリの人は棚田で農業をやめることはあまりないとのこと。確かに外国からの観光客が多く訪れるのをみて、自分たちももっと豊かになりたいと思うおもいはあるでしょう。がしかし、バリ島の人々からそれをことさら追求するといった姿勢は見られません。変わりに見られる姿勢は「自分たちの文化に誇りをもち、自然と共存していく」というものです。

諸外国の豊かさには憧れがあるでしょう。でも彼らはその「経済的豊かさ」以上に「自分たちの文化を大切にすること」そして「自然と共存していく」ということを優先しているのだと思います。そこにはある種の「美意識」というものがあるのだと思います。

自分たちの文化に誇りを持っている。だからこそバリ島の人々は心のゆとりがあり、彼らの笑顔には一切の曇りがなく、見る人の心を洗うのだと思うわけです。(まぁしかし全てのバリにいる人がそうだとは限りませんが。。。他の島から出稼ぎにきて悪さをたくらむ人も多くいるとかいないとか。。。)

きっと、この美意識は今の日本人が忘れてしまった一番大切な「価値観」なのだと思うのです。
美意識は人と比べることもない。
基準が全て自分にある。ようは自己満足です。

経済的成功を唯一の価値基準としてしまうと、人より多い、少ないでどうしても判断してしまいます。
でも、美意識に忠実な人は、基準が全て「自分」にあります。ようは自分が決めた基準が全てなので、人がどうだとかは関係ないわけです。

自分の美意識にしたがって生きること。
これが幸せな生き方のポイントなんじゃないかと最近思うわけです。

皆さんは自分の美意識に従って生きていますか?

というわけで、本日も長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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東京

素人 ⇒ 東京

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「大都会東京」

昔そんな言葉で表現された日本国の首都。その言葉の裏にはたくさんの意味が含まれている。それはそこに多くの人が関わり、多くの人が夢と希望を求め、またある人は絶望と苦悩に悩まされる。そんな人間模様を全てがこの「大都会東京」という言葉の中に含まれている。だからこそ、魅惑的でまた新たな人を惹きつける。


そんな私も高校時代、強烈に「東京」というものに憧れた一人だった。どんな手をつかってもいい、とにかく東京に行きたいと願った。そして勉強に励み、東京の私立大学に合格。あと一歩で東京へ進出できる!!そう思っていたのですが、結局は地方の大学に進学となった。(国立で学費が安いからという強烈な親の一言で確定)

正直私はそのころ「都落ち」な気分だった。普通都落ちというと言葉そのものが表すとおり「都にいられなくなって離れること」を表しているので、そもそも自分は都になんかいなかっただろ!!って突っ込みはまぁこの際抜きにして、とにかく東京に行けなかった無念さだけが残っていた。


さて、そんな夢であった東京に今現在私は住んでいる。子供のころの自分の夢は達成したという意味では感慨深いが、当初自分が思い描いていた「東京」とまた異なる「東京」が私の目の前には広がっていた。

それは「殺伐とした東京」。そう、そこに人が「生きている」という実感のないなんとも形容しがたい街がそこにはあるのです。なんというか、「地に足がついていない」というか「ふわふわしている」というか。。。

そこには人が住み、そこで生活し、そこで働き、そこで育ち、成長していく。
そんな「人の息吹」みたいなものが感じられないのだ。

考えてみればそれは仕方がないのかもしれない。極限までに資本主義を発達させ、そのシンボルが「東京」である。資本主義の原則は「より多くのものをより安く」効率化至上主義であり、その考えはモノやサービスの隅から隅までいきわたり、都市という大きな集合体にまで影響を与えるようになったということだ。

経済的機能を特化する形で国の中心に集める、いや結果として効率化を求めると集まってくるといったほうがよいかもしれないが、そうこうするうちに、東京の中心から人が消え、どんどん郊外に離れていった。世に言うドーナツ化現象であるが、ようは住まう場所と育て成長する場所、そして働く場所がバラバラになってしまったということだ。

結果として「働くだけの街」と「寝るだけの街」。なんだか殺伐としているのも理解できるというものだ。


そんな殺伐とした東京。そんな大都会で私はこの前「ヤンキー」を見つけた。「ヤンキー」という言葉を久しぶりに使ったように思う。
それくらい「ヤンキー」は絶滅危惧種なのだと思う。東京ではもうほとんど見かけなくなったといってもいい。

私はそんな「ヤンキー」をみてなんだかうれしくなった。というのも彼らの会話が今の東京にないと思われていた「地に足がついた感」があるからだ。
「あの店のチャーシューうめ〜よな」「何ってるんだよ〜あっちのほうがうまいって!」会話はたわいもないことを、オレこそが正しいといわんばかりに大きな声で話をしている。まるで、自分の強さを証明するかのように。

が、しかしお店の名前がことごとく「ごく近場」のはなしなのだ。せいぜい2,3キロ圏内の話。この話をきいて、彼らがいかにこの街に住まい、根をはり、この街を愛し、生活をしているかが私にはじわっと伝わってくる。さざなみのようにじわっと。

思うに「ヤンキー」という種族は、そこに住み、そこで生活し、生きている状況が作られないと決して生まれない種族だと。なぜならば、学ぶ場(学校)と生活する場(家)が離れてしまっては、いつもいつもツルム(一緒にいる)ことができないから。どうしても物理的距離というものができるからだ。一緒にいるということは、当然共通するコミュニケーションができるというわけで、だからこそのあのヤンキーの連帯感というものがでてくるのだと思う。

「ヤンキー」がいるということは、その土地が土地として人が住んでいる、生活している「活力」があるからこそ発生しているのであって、人が住んでいない街には決して存在ができない。「ヤンキー」はその土地の「活力」のバロメーターなのだ。

そんな意味で、東京もまだまだ捨てたものではないなぁ〜と感じた
そして同時に、もっともっとそこに人が住まう街というものが東京中に広がったらよいのにとも思った。
そう、江戸時代の世界最大の都市「江戸」のように。。。

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素人


武士 ⇒ 素人

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「素人とプロの違いとはなんだと思う?」


社会人になったばかりの私にそう質問した先輩。その先輩は会社で一番の売上げを上げるスーパー営業マンでした。私が思うにその先輩は営業職の「プロ」中の「プロ」。そんなプロ中のプロの先輩からの質問に、私は思わず、

「先輩みたいな人がプロだと思います」

っと答えました。先輩は喜びましたが、「それじゃ〜答えにならんじゃないか〜」って笑っていました。笑っていたのですが、先輩は答えを教えてはくれませんでした。そして今だにその答えを聴かせてもらえていません。


さてさて、改めて「プロってなんなんだろう?」って考えたわけです、私。「プロになりたい」とよく言いますが、その人にとって「プロ」とは何を意味するのか?それによって「プロになりたい」の意味がまったく異なると思ったからです。私はまず最初に「できる」「できない」という単純な軸で考えは始めることにしました。


一般的に人が何かをできるようになる過程、いわゆる「成長のステップ」は4つステップで説明できます。

1.「意識していない状態(無意識)」で「できない」
2.「意識している」が、「できない」
3.「意識して」、「できる」
4.「無意識」で、「できる」

の4ステップです。人は例外なくこの4ステップを踏んでモノゴトができるようになります。

例えば、車の運転ということで考えてみましょう。

子供のころ、自分が車を運転するという意識すら上らないものです。車は大人が運転するもので、自分が運転するなんて思いもよらないわけです。(第1ステップ)そんな子供が成長し、だんだんと車を運転したいなぁ〜って思うわけです。彼女とドライブデートしたいなぁ〜なんて淡い欲も出てくるわけです(笑)がしかし、はたと気付くわけです。どうやって運転ってするのだ?オレ、運転できるんだろうか?と(第2ステップ)で、どうするか?よーし、運転できるようになるために、教習所へ行くぞ!!となるわけです。教習所に行ってチョット練習すると、あれ、意外と運転できるんじゃないの〜と思ったり、クランクでポールにぶつけたりして、あら〜オレヘタクソだなぁ〜なんて落ち込んだりして。。。(笑)

そんな浮き沈みを経て、晴れて教習所を卒業し、運転免許書をゲット!コレで運転できるぞ〜となるわけです。いざ運転!え〜とサイドブレーキをはずして、アクセルを踏んで、あれ、ミラーなおすの忘れた〜なんていいながら運転するわけです。ぶつかりそうになって肝を冷やすなんてことも。で、ここでやめてしまうといわゆるペーパードライバーですね(第3ステップ)

そんなこんなで、ぎこちない運転を続けているうちに、あるとき無意識でも運転ができるようになってきます。この段階までくると、人はサイドミラー直して、アクセル踏んでだとか思わず、無意識で運転できるようになるわけです。この段階まで行くと、体に染み付いていますので、仮に長い間運転しないくとも、車に乗ったらすぐに運転できるものです(第4ステップ)

いかがでしょうか。これはあくまで車の運転ということですが、ほかのどんなことも同じ成長ステップを踏んでいくと私は考えています。

で、何かができるようになる上で、一番厄介なステップが2⇒3のステップです。車の運転の例をとると、教習所で運転を習っているころから、無意識に運転できるようになるまでの段階です。この段階はどうしても

「ぎこちない」

わけです。もしかするとかるーくぶつけてしまったり、彼女を乗せてドライブ中にかっこ悪いところを見せてしまったり・・・。そんなぎこちない状況で、「なんだか運転したくないなぁ〜」だとか「もういいかなぁ〜運転。だってこんなかっこ悪い思いしてまで運転する必要ないんじゃないか」とか思って運転をやめてしまおうという動機が出てきてしまうわけです。当然ですが、ここでやめてしまってはステップ1に逆戻りです。何でもできるようになるためには、この「ぎこちない」段階をいかにクリアするか?これが重要だと思います。


さて、「素人とプロの違い」という話を戻しますと、私は第4ステップ「無意識でできる」状態がプロだと思っています。で、1〜3は「素人」なのだと。無意識にできて初めてプロなのだと思います。


で、今までのお話は「車を運転する」という一つのことに対してお話してきました。「車を運転する」ということのプロは「無意識に運転できる」ということなのですが、人とはおもしろいもので、一つのことを達成したらより高度なものを求めちゃう生き物で、例えば、「タクシー運転手」とか「大型トラック運転手」などになりたいなぁ〜なんて思うわけです。

そうすると当然ですが新しい「スキル」が要求されます。これらの仕事は、さすがにただ運転できればいいというわけにはいかず、それなりの「スキル」が必要となってきます。するとまた新しい成長の4ステップを踏むことになります。「ただ車の運転する」ということであれば「プロ」だった人も、「大型トラックを運転する」の段階になると、「素人」に逆戻りなわけです。

これ、意外と苦しいですよね。何せまたあの「ぎこちなさ」を体験しないといけなくなるから。そして今回はさらに「普通の車ならプロ」の状態だからなおさらこの「ぎこちなさ」を受け入れることがつらくなるわけです。何せ普通の車の運転ならプロですからね。惨めな思いをすると、すぐに「ほら〜オレ普通車運転できるだろう〜」ってできるほうに戻っちゃったりして、何とか自尊心を保とうとしちゃったり(笑)


人は常に成長を求める生き物だとすると、「素人」⇒「プロ」⇒「素人」⇒「プロ」・・・というステップを踏みつづけることになります。なのでどこに視点を置くかで人は「プロ」にも「素人」にもなるわけです。


で、「プロと素人の違いは何なのか?」といわれると、私の最終的な結論は、

・成長のステップをぐるぐる回して、圧倒的な成果を出すことができる
・その成果をほかの環境でも出せる、再現性

なんだと思います。一つのことを極めた人は、多分ほかのこともやろうと思えばできるといわれるのはそのためだと私は思っています。

つまり、プロとは「何かができる」というより「何かができるようになるまで成長のステップを回し続けることができる人」なんだと思います。

そして、「プロ」から「素人」に戻ることをいとわない。いやむしろ積極的に「素人」へ戻っていく人たち。それこそが本物の「プロ」なんだと思います。



「素人」、いいじゃないか。
人間全てが「素人」であり「プロ」なんだから。

そんな「素人」で「ぎこちない」自分でいいじゃないか。
だって、そこを超えたらまたプロだから。。。

先輩はそんなことを言いたかったのではないかなぁ〜なんて今は思うわけです。

果たしてあっているのでしょうか?
(この前一緒に飲んだときに聴いたのですが、教えてくれませんでした。。。)

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武士

ルービックキューブ ⇒ 武士

                                                                                                • -


「武士道とは死ぬことと見つけたり


武士について語ると必ず出てくる言葉です。がしかし、この言葉があまりにも有名すぎて、この言葉が語られた書物やその作者が誰なのかを知る人はあまりいないでしょう。

書き主と書物の名前は、肥前国佐賀鍋島藩藩士・山本常朝著『葉隠』で、その中の一説がこの有名な言葉だそうな。がしかし、中身のほどは私も読んだことがないのであまりわからない。勉強不足です、はい。


さて、やっぱり武士について語るとするならば新渡戸稲造の『武士道』をはずすわけにはいかないでしょう。その中で武士道についていくつかの要点がまとめられていますが、もっとも大切なことだと私が思うことに、

武士道は、戦う貴人が職業だけでなく日常生活においても守るべき道で、「騎士道の規律」「ノーブレス・オブリージュ」(身分高い者に伴う義務)である。

というくだりがあります。この文の意味するところは、ただ武士として戦っていればよいのかといったらそうではなく、日常生活、もっと言ってしまえば生きている間中「その武士」という役に与えられた義務を全うすべしということです。

で、誰に対して義務をおうのか?実はコレがミソだったりします。近場でいくと仕える主人に対してですが、実はそれだけではなく、社会、国、そして自然そのものといったより大きな抽象的な存在をも含んで責任の対象としていると解釈されているのです。だからこそ、主人に仕える身であっても、主人が社会の正義に反することを謀ろうとするならば、身をもってそれを制すなんとこともあったわけです。


翻って今の日本。最近よく話題にあがるのが「モラルハザード」という言葉です。近々ですと、三菱東京UFJ銀行社員が英国にて金利操作を行っただとか、野村證券社員がインサイダー取引に手をだしたなど、明らかに社会正義に反することが起こっています。これからの仕業は実は日本人ではなく、外資系の金融会社から引き抜かれた人間(おそらくリーマンブラザーズ系)が起こしていることだと推測されますが、(かつ契約上問題社員の名前を出せないようになっている)ようは何でそんなしょうもない人材を採用してしまったのか?というところに尽きると思います。

儲けることができればそれでいい、だからトレーダーとして実績のある人間であれば多少の人間性は目をつぶろう。そこまでいかなくても、第一義的に儲けることが目的となっているため、儲けられるかどうか「だけ」で人を見ていて、その手法やその人間のあり方までは採用のときに見ていなかったのでしょう。そんな近視眼的、モラルハザード的会社に果たして未来があるのでしょうか?


私は常々、日本は大切な「何か」を忘れてしまったと書かせていただきましたが、その何かを忘れてしまったために今のような混沌とした社会を作り上げてしまったのだと考えています。

ではその「何か」とな何でしょうか?

私はまだまだ勉強不足で、それをまとめて書くためにはまだまだ考察が必要なのですが、その一つが「武士道」の中に現れている「社会性と社会に対する在り方」なんだと思っています。

こうやって書いてしまうと少々難しく聞えてしまいますが、簡単に言うと、

「世のため人のため」

というおばあちゃんやおじいちゃんが言いそうな、素朴なことなのです。

そして、日本はそういうことを何かの「結果」であらわすだけでなく、日々のその人自身の「あり方」で示していたのです。示していたとかくと少々悲しくなるのですが、チョット昔まではということです。

戦後から高度経済成長の前までは日本には、明治生まれ、明治より前の生まれの方々がいらっしゃいました。その方々はちょんまげや刀は持っていませんでしたが、その「精神」は持ち合わせていたのでしょう。まさに武士です。

が、その世代から我々の世代へとその精神は受け継がれているかというと、残念ながら断絶しているといえるでしょう。高度経済成長時から「あり方」を忘れてしまい、「結果」のみを追い求めるようになってしまいました。私はそう考えています。

そして「結果」のみを追求してきた社会、それが今の高度に発達した(あえて発展とは書きません)資本主義社会であり、結果さえでればどんなことをしたってもよいというモラルハザード社会なのです。儲けるためには人を出し抜いてもいい、もっとたくさんの売上げを上げるために、日本で生産できるような農産物を海外から輸入して、間の輸送費の無駄を見てみぬふりをする。そんな矛盾に満ちた食材を何食わぬ顔をして食べる私たち。

そこには個人個人が「どう生きるか?」という「あり方」がないのです。あるのは重苦しい空虚感だけです。


今こそ私は一人一人が「どう生きるか?」という「あり方」レベルで生きることをもう一度選択しなおすチャンスだと思っています。目の前の結果ではなく「あなたが日本人として、そして地球人として、また一人の人間としてどう生きるか」という「あり方」から変えていく。そうすることで、きっと日本は輝きを増していくことでしょう。


「武士道とは死ぬことと見つけたり


といわれますが、私はあえてこう言いたいと思います。


武士道とはどう生きるか?というあり方を実践する文字通り生きる「道」であると。

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<次の題名募集>

せっかくなので、このBlogの最新記事を読んで、コメント欄に、「次に書いて欲しい題名」を募集したいと思います。1記事に対して先着1名様まで。

先着1名様、「あなただけ」の文章を書かせていただきますので、どしどしご応募ください。

ちなみに、簡単なルールがありまして、

・題名はしりとり形式で進む(今回であれば「し」から)
・いただいた題名が最後「ん」で終わるのはなしで
 (その時点で終わってしまうので。ああ、もうやめろってことねって悲しくなりますのでやめてください(笑)

です。それではご応募お待ちしております。

ルービックキューブ

ビール ⇒ ルービックキューブ

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子供のころ、田舎に住んでいた私にとって「遊び」とは、「自然と戯れること」でした。

どぶ川に空き缶を入れて「大冒険」!とかいって何度も何度も川に流しては遊び、途中の難所を「ナイアガラの滝」とか名前つけてたりしていました。

さらにそのナイアガラの滝の高低差をつけたらもっとおもしろく缶が流れるのではないか?と考えて、石と布で川をせき止めて高低差をつけ、夕方になったのでそのまま放置して帰ったら、次の日、どぶ川の隣にある家の庭を水びだしにしてしまったり。。。まぁ、ありとあらゆる「悪さ」(といっても今時の陰湿なものではなく、子供の悪戯レベル)をやったものです。。。


そんな私の前に現れたカラフルな箱。
そう、それこそ「ルービックキューブ」だったのです。

私のとってルービックキューブの登場はホントに衝撃的でした。何せ今までどぶ川で遊んでいた友達がみんなルービックキューブに夢中になってしまったからです。

「な〜川で遊ぼうぜ〜」「いいよ、俺らこっちで遊んでいるから〜」

「う〜っっっ。。。。↓」友達をルービックキューブに取られてしまった私。
ルービックキューブを恨んだのは言うまでもありません(笑)


何がそんなに面白いのだろうか?あるとき友達に借りて遊んでみました。。。

「ガチャガチャガチャ。。。」

。。。まったく面白くない。そりゃ、そうです。そろえることがなかなかできないからです。

「かしてみな。ガチャガチャ。。。ホラ、こうやってやるんだよ!」

納得がいかない!!こんなつまらないものに友達を奪われたのか!!私は悩んだ(笑)

面白いもので、必ずクラスで一人くらいモーレツに早くできるやつがいるのです。しかも明らかにおかしい速さでやっちゃう子が。。。そいつは一躍クラスのヒーロー。悔しい思いをしたものです。



そんなこともすっかり忘れて大人になったある日、たまたまお店でルービックキューブを見つけました。何気に手にとって、なるほど〜と思ったのです。というのも、これはそれぞれの面が異なる色になっていて、一面だけではなく全体を意識してみていればそんなに難しいことではないなぁ〜と感じたからです。子供のころは、一面ばかりに意識がいってしまって、ほかの面との整合性がつかなかったのです。

で、チョットやってみると、むちゃくちゃ早くというわけではないのですが、あら、案外簡単にできる。

「オレ、成長したなぁ〜」

なんて思いましたが、ここでお話したいことはそんなことではなく、

「ルールがわかってしまうと、なんだかつまらない」

ということです。

子供のころ、もし私がルービックキューブのやり方(ルール)を知っていたらどうだったでしょうか?きっとモテモテだったことでしょう(そんなことないか)まぁ、そこまでいかなくてもチョットはチヤホヤされたはずです。
でも、そのうちに気付くはずです。なんでこんなことやているのだろうか?って。こうすればうまくいってしまうというものをいつまでもずっと続けるってことは、それはそれでつらいものなのです。

で、そのうち自分の知らない世界を見てみたくなる。体験してみたくなる。そうやって人は成長しているのだと思うのです。成長だけは人間の根源的な欲求だとなんだかえらい人が言っていたような。。


人生というものは、ルールがわかればいいなぁ〜とか、そのルールさえわかれば、もっともっと良い生活ができる!って思うもの。でも、もし全てのことがわかってしまったら、それはそれでつまらない。というか、生きている意味がありません。だって何をしようとしても思い通りになってしまうから。というかもうそれはどうなるか決まっている世界。神にすべての決定権があるというゲームの世界と一緒ですね(笑)そんな世界なら何かしようなんて思いませんよね。


ルービックキューブに向かって、何とか攻略してやろうと思って夢中になり、ガチャガチャやり続けたあのころ。
やり続けるモチベーションは「モテたい」(爆)あと、なんでアイツばかりチヤホヤされるんだよ!って嫉妬心(爆)
そしてやり遂げた後の「達成感」。そして、次の知らない世界(私の場合、茶畑へいってお茶のみをパチンコで飛ばすだったが)へ飛び出すチャレンジ精神。


なんだか、ルービックキューブって人生の縮図だなぁ〜
人生は複雑なようで、きっとこのルービックキューブの世界と同じなのでしょう。知らないことにチャレンジして、それを達成する喜び。ただコレだけ。

人生はシンプルですね。


あのころルービックキューブができなかった私は、それはそれでよかったんだ。うん、よかったんだ。

ん、なんでだって?

それは、こんな文章が書けたからですよ!

といって自分自身をおおいに肯定する私でした。(笑)


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先着1名様、「あなただけ」の文章を書かせていただきますので、どしどしご応募ください。

ちなみに、簡単なルールがありまして、

・題名はしりとり形式で進む(今回であれば「ぶ」から)
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 (その時点で終わってしまうので。ああ、もうやめろってことねって悲しくなりますのでやめてください(笑)

です。それではご応募お待ちしております。