『ど』真ん中 ストレートを投げる勇気


「ど真ん中」

野球の世界では、この「ど真ん中」という言葉はそのまま「=もっとも危ない」と解されます。バッターにとってもっとも打ちやすいと思われているからです。で、当然ですがその「ど真ん中」を避けるようにピッチャーは創意工夫や駆け引きをしてバッターを討ち取っていく。そんなピッチャーとバッターとのやり取りが野球のおもしろさだと思っています。

コレはサッカーの世界でも同じことが言えます。PK戦になるとキーパーは必ず左か右かどちらかに飛んびます。当然キッカーもどちらかの隅を狙って蹴ったりします。真ん中に蹴りこむキッカーもいなければ、蹴る瞬間まったく動かないキーパーも中々お目にかかることができません。

そんなこんなで、野球界でもサッカー界でも「ど真ん中」は禁句みたいな扱いをされ、ど真ん中なんて投げようものなら指導者からの叱責を受けたりしちゃいます。子供のころからそう教育されてしまうと、どうしても子供は「技巧」に走ってしまうわけです。何とかかわそうとしたり、変化球覚えちゃったりするわけ。

がしかし、私は思うのは「ど真ん中ストレートがビシッと投げられなくて、外角低めを投げられるか?」ってこと。
野球に限らず、社会一般的にどうもこういった「技巧」に走っている人が多いように感じてなりません。

最近の人は、簡単にすぐにできるものに惹かれてしまいます。そして、本屋に行けばそんないわゆる「ノウハウ」系の本がそれこそごまんと並んでいるわけです。でも思うに基本のき、野球で言うならばど真ん中ストレートができなくて、果たしてどんな成果があげられるのでしょうか?確かにその場をしのぐテクニック的なものはあるのかもしれません。がしかし、そうやってその場しのぎだけで乗り切ってくると、「地力(じりき)」というものがつかないものなのです。結果、小さくまとまってしまうわけです。

いや、小さくまとまってしまうだけであればまだよいのです。問題はその小ささに気づかずに、何とかその小ささを隠そうとひたすら詭弁を張ってしまうところなのです。これは社会を代表する政治家をみれば一目瞭然です。小手先の「調整」はとってもうまいのに、肝心なところはいつも先送り。で、自分には実力がありませんでしたってさっさと認めてしまえば楽になるのに、ごにょごにょ「もっともらしい」言い訳をいっちゃうわけです。昔の政治家は良い悪いはおいておいて、いわゆる「骨のある」政治家、一癖も二癖もあるような人間くささがあったんだと思うのです。なんというか「芯」があるというか、そう日本人は「芯」を忘れちゃったんだと思います。

そう考えると、日本という国はもうそれこそ一億総詭弁社会。
薄っぺらい土台の上に蜃気楼が乗っかっているみたいな国ですね(笑)

我々はもう一度自分が生きるための「芯」というものを見つけないといけない、最近私はそう思うのです。
今自分の口からその「芯」が何なのか?って言えないもどかしさがありますが、それはそれでいいのだと思っています。それこそここで答えを求めていること自体が「簡単に答えを求める」姿勢につながるわけで「地力」をつける妨げになるから。

「芯」が何かわかるということより、「芯」が何なのか試行錯誤してみること、そのプロセスが大切だと私は思うのです。
そんなプロセスははたから見ると「ぷぷぷっど真ん中ストレートだって(爆)」って笑いものになるかもしれない。でもそうやって「ど真ん中ストレート」を投げ続けることで試行錯誤した結果身につくことが「地力」であり「芯」なんだと思います。

そう、いいじゃないか、ど真ん中ストレートから始めるよう。
で、「地力」をつけようじゃないか、日本人よ!

なんてね。